1613年10月28日(慶長18年9月15日)明け方、宮城県石巻市牡鹿半島月浦から一隻のガレオン船が出帆しました。サン・ファン・バウティスタ号です。船の名前の意味は洗礼者聖ヨハネです。時は約400年前、江戸時代初期、秀忠が二代将軍になり、まだ家康が力を奮っていた頃。伊達政宗は仙台藩主として、1601年、政治・経済・交通の要地であった青葉山丘陵の東端に青葉城(仙台城)を移し、内政を整え、藩制の確立や城下の統制を行い、江戸や京都に負けない5万人が住む領国造りをしていました。1611年、慶長大震災と大津波が起こります。しかし政宗は痛みからすぐに立ち上がり、より大きな理想を抱き、松島の「野蒜」に世界貿易港を造るという計画を推し進めて行きます。梵天丸と呼ばれた幼少の頃から政宗は、羽州(山形県・秋田県)の聖人・万海上人の生まれ変わりと言われるほど頭が良く知恵深い子供でした。港湾や北上川の整備、産業の振興などを行い、将来の貿易港までも見据えて復興と国造りをしていきます。そのため仙台は、政宗独自の素晴らしい領国へと繁栄していきました。

政宗が世界を考え始めたのは相馬攻めの後、海で遊び東北で親しかった北条氏照より南蛮帽を贈られた23歳の頃からでした。朱印船貿易など日本の海上交通は西に重きを置いて、皆が西を見ている中、政宗だけは東に目を向けたのです。なんと青葉城は太平洋を眺められる日本で唯一の城であったのです!当時、中世ローマカトリックの腐敗を機に生まれたルネッサンスにより航海技術が発達するにつれ、西欧人たちは船で世界に出始め宣教師達も世界に出始めました。1549年に、日本人の礼儀正しい民族性の良さを聞きつけ、ポルトガルから最初の宣教師が来日し、それからスペイン、オランダ、イギリスからも宣教師達がやって来ます。家康がスペインの宣教師ルイス・ソテロを助けたことから交流が生まれます。家康は、天正少年使節が外国船でローマへ行き持ち帰った世界地図を見て、日本も世界に出なければならないと考え大型船を造ってみます。しかしながら秀忠が命じて造った船が、浦賀の沖合い約5kmの所で座礁し、幕府は造船もメキシコ通商も諦めます。そこで貿易船を自分の領内に寄港させたい政宗が意欲的に申し出ます。1613年4月、駿府で家康と親しく話し幕府の承諾を得て支援も受けて、月浦(石巻市雄勝町)で船造りが始まりました。

造船に携わった者達は、幕府船奉行・向井忠勝の配下で、かなりの技術を身に付けていた公儀大工与十郎やその配下の船大工たち、加えて仙台藩からは、船奉行・秋保刑部頼重(あきうぎょうぶよりしげ)と河東田縫殿親顕(かとうだぬいどのちかあき)、その配下の仙台藩の船大工たちでした。ちなみに幕府船奉行・向井忠勝とその配下達は、イギリスの宣教師であり航海士であり造船技術者でもあった三浦按針(ウィリアム・アダムス)から造船技術の教えを受けていました。スペイン人達も加わり総勢4000名以上が建造にあたったのです。実働日数45日の、出帆の前日まで続く大変な重労働でした。こうして完成した日本初の最初の約500トンの頑強なガレオン船、バウティスタ号は太平洋へ向かいます。

当時、47歳の政宗は、それまでの交渉能力を高く評価し信頼の厚い4歳下の家臣、支倉常長を使節に選びました。バウティスタ号は、スペイン人宣教師ルイス・ソテロやビスカイノ他180名を乗せて、3ヶ月かけスペイン領のメキシコ・アカプルコへ到着します。そこには家康が出したキリスト教禁止令の話が届いていました。そこから本国であるスペイン、そしてローマまで行くことになります。藩主である政宗の篤い思いを受け、キリスト教の布教受入れを条件に交易を成し遂げようと、粘り強く交渉を続けた常長の7年にわたる船旅でした。時化や嵐、航路も探しながらの前人未到の旅です。そのあまりの大変さと、また海という大自然の中で神秘を感じたのでしょう。船上で宣教師からキリスト教の話を聞き、神様を信じるようになった常長は、ローマで教皇に謁見し洗礼を受けます。貿易実現を信じる政宗のため常長は辛抱強く交渉していきます。しかし遂に目的は達成できず7年後1620年に帰国します。過酷な旅だった事を表すかの如く常長は重病にかかり約1年後、51歳で生涯を閉じました。一度は消えた歴史でしたが明治時代に岩倉具視の遣欧使節団がこの驚くべき偉業を発見したことを機に、政宗・常長による慶長遣欧使節は再び日の目をみる様になりました。そして大志を抱き誰も出来なかったことに先駆的に挑戦していった政宗と、自分の仕える藩主のために目的遂行のため諦めずに挑戦し続けた常長の姿が現れてきたのです。

ローマに残されていたのは、常長の篤実で一途な人柄。東北弁で話した演説も上手で人々から大きな信頼を得ていました。交渉は上手く行かなくても、とても愛されたのです。2014年10月、常長の大きな銅像のあるスペインのコリア・デル・リオでは、日本からはるばる航海して来た1614年10月5日を4世紀ぶりに再現しようと、この町に住む、スペインに残った日本人の子孫と呼ばれる、「ハポン」の名字を持つ方々約6000名が、常長の13代目子孫、支倉常隆さん(68歳)を日本から招きイベントが執り行われました。今もこの偉業を残した政宗、常長の強い精神性は、日本内外に、誇れる東北地方の方々の県民性に残っています。地方活性化が叫ばれ始めた1993年に宮城県と石巻市の人々は、このサン・ファン・バウティスタ号を復元し、関連する行事、展示会、講演会、保存などを「底力のある根気強さで丁寧に確実に」続けてきました。また困難な時には、チャレンジ精神で誠実に仕事を成してこられました。そしてこの復元船も2011年の大津波に耐え、勇気と希望を与えています。メキシコ、スペイン、フランス、イタリア、バチカン、フィリピン諸国との交流の礎も既に築いてきました。宮城県の方々のみならず、政宗・常長から受け継いだ二人の業績は、東日本の復興を願う日本中に、勇気、誇り、ロマン、大きな力を与えてくれます。2013年、使節の関係資料が、ユネスコの世界記憶遺産に登録されました。河北新報創刊百周年を記念して創設した『東は未来塾』の西澤潤一(前東北大学長)塾頭の、『私たちは、先祖の誉れと夢を思い起こすべきだ。東北にとって、太平洋は最大の資産であり、その中心地が石巻市だ。平成5年にバウティスタ号が復元されたことは、太平洋新時代の幕開けを象徴する出来事だった』(「伊達の黒船物語‐サン・ファン・バウティスタストーリー」公益財団法人慶長遣欧使節船協会10年史)と語られたことが、未来を予言させる水先案内になっているようです。 (丸山)

雑誌 海洋真時代 Vol.1より抜粋
2015年3月3日発行

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