改革の勝利者・上杉鷹山

為せば成る 為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり

山形県米沢駅から伸びる大通りを、松川を越えてまっすぐに行くと、清々しい静謐を保った一角に上杉神社と松岬神社があります。若葉の緑がしたたるその境内には、上杉家の家祖であり戦国の雄、上杉謙信を祀る上杉神社、その隣には米沢初代藩主上杉景勝、米沢の礎を築いた直江兼続、上杉藩中興の祖、上杉鷹山他六柱を祀る松岬神社があります。初夏の爽やかな陽ざしの中で、日本史に光を放った英雄たちが、神社を訪れる者たちに声無き声で語りかけていました。

米沢藩中興の祖として、上杉鷹山公は、江戸時代中期、20万両(現在の100億)という借財をかかえ危機に瀕していた上杉藩を、当時の18世紀、最も先進的な思想理念をもって奇跡の藩政改革を行った名君です。近年、富に注目を集めています。上杉鷹山公(1751‐1822)が藩政改革を行った時期は、徳川家治を第10代将軍として田沼意次が徳川幕府の実権を握っていた時期に当たります。その頃、世界は中世封建社会から近世基督教民主主義時代に入っていました。

当時は、幕府も財政が厳しく、武士よりも商人や町人が栄え経済力をもつようになっていました。米沢藩が藩を幕府に返上しなければならないほど逼迫した状況の中、鷹山(治憲)は、九州日向高鍋藩主秋月家から9歳で上杉家に養子に入ります。1767年、17歳で上杉家九代目藩主になった日に、鷹山が詠んだ歌が、「受けつぎて国のつかさの身となれば、忘れまじきは、民の父母」です。鷹山の生涯の恩師、細井平洲に学んだ君徳の教えのごとく、藩内の民の親となる覚悟を凝縮した誓いの歌でした。

上杉家は、藤原氏の流れをくむ公家の勧修寺家の血を引く重房を祖に仰ぐ家系で、越後に生まれた武将謙信の勲功により大名の一角に列せられました。謙信の養子第二代藩主景勝の時代に、秀吉から会津120万石を拝領して豊臣5大老の一人となりますが、関が原の戦いでは西軍についたため、家康から米沢30万石に減封されます。この頃の米沢領は、謙信と景勝の2代に仕えた智将直江兼続の直江山城守の領地で、出羽置賜、奥州信夫、伊達3郡を含んでいました。世継ぎが決まらぬうちに三代藩主が急死したために、急遽、養子を迎えてお家断絶の危機を免れたものの、上杉家は15万石に減封されてしまいます。

その後、狭い領国になっても、上杉家はかつての120万石の大名家であった時以来仕えてきた藩士達をそのまま抱えていたので、財政は苦しくなっていきました。四代目藩主は、幕府高家吉良上野介義央の息子綱憲が養子として入ったため、高家の誇りから格式を重視し、更に借金が嵩(かさ)みました。借金は、その後、五代、六代、七代、八代まで、誰も整理できず増え続けました。現在の100億まで嵩んだ借金を引き受けたのが九代目の藩主、鷹山でした。

この巨額な借金を17歳の治憲(後の鷹山)はどのようにして返済していったのでしょう。14歳で高名な細井平州に儒学を学び、その教えのごとく改革の核に「徳」をおきました。藩政は藩のためでなく民のために行い、民と藩士達への愛情いたわりは決して忘れないという、「民の父母」の心と姿勢で改革に臨みました。この徳目が鷹山公の改革の勝利の秘訣でした。

鷹山は、藩の窮状を立て直すための人材育成の場として学問所再興を行い、25年間に亘って細井平州を3度米沢に招聘し、興譲館という学校を造ります。身分を越えて教育を行い、有用な意見を取り入れて改革を推し進めました。「興譲」は「大学の一家仁一国興仁 一家譲一国興譲」から出たもので、君主の家に仁の心が行き渡れば、それに感化されて国中が仁の実現に奮い立ち、君主の家が譲(慎み深く控えめであること)であれば、それに感化されて国中に譲の気風が興ってくるというのが、その意味です。米沢では民百姓も読み書きができ、教育は武士に留まらず領民まで及んでいたといいます。この藩校は、現在の山形県立米沢興譲館高等学校として、その流れと名称が引き継がれています。

鷹山の正室は八代重定の娘で心身障害者でした。鷹山は最期まで、愛情深くとても大事にしました。そのことが鷹山が、生涯、弱者へ対して労わりのある政治を行う心情的な基礎となりました。鷹山は、性格は素直で正直。洞察力、人を見る目、智恵にも長けていました。志あわせて歩む家臣5人は当時藩政のアウトサイダーたちでした。はじめ米沢にお国入りした時、領地は荒廃していましたが、それ以上に民の心も、藩士たちも死んでいること、希望を失っていることを感じました。鷹山は、お国入りの旅の途中、灰の中で今にも消えそうな炭火が、大切に息を吹きかけると、再びあかあかと燃え始めました。「再び燃えはじめた炭火」を教訓に、改革の希望をもちます。領民を喜ばせ生かすと心に決め、家臣5人と紆余曲折を通っていきます。

鷹山が直面した困難は上杉家の誇り高い仕来り(しきたり)を重んじる重臣達の妨害でした。「小さな藩から来た若造にできるはずがない。この改革がうまくいくはずない」という重臣たちの圧力が常に有りました。自らは藩主という公的立場に立っていたために、不義を見ても怒りをあらわす事はできず、鷹山にできることは感情をコントロールすることでした。しかし本国に入った19歳の治憲は、「自分を藩主と決めるのは重臣達や藩士ではなく、民たちだ」と大胆に宣言し、23歳の時、改革を妨害する7人の重臣達を処断します。

鷹山が取り組んだことは、無駄な出費を削減することでした。大倹約令を布いて、鷹山自ら木綿の着物に身を包み、自身の経費は7分の一に、奥女中の数を5分の一に、食事は自ら一汁一菜に切り詰めました。殖産興業によって新たな財源を生み出す努力を重ねました。藩校による教育を身分わけへだてなく行い、鷹山の改革の思想が民間まで行渡るようにして、民の活力を高めました。江戸時代、海上航路が整い、日本列島の周りを廻る船が活発に物資を運びました。最上川を通って米沢の特産品を酒田港まで運び、北前船で日本海の海路を通って京都や江戸まで運びました。最上川と日本海の水路海路の恩恵を受けたことも、鷹山の改革を成功させた大きな要因でした。

藩は大きく立ち直っていきました。鷹山の改革によって米沢織、絹製品、漆器、紅花などの特産品が米沢に産まれました。1793年、大飢饉が原因で再び米沢藩が財政困難になった時、鷹山の要請に応じて改革の危機を救ったのが、酒田の豪商本間光丘でした。酒田商人本間久四郎原光を継いだ三代目です。「お金は人のために使うもの」との信念で鷹山の改革を助けました。本間光丘は収益を公共のために必ず還元した豪商として「光丘神社」に祀られ、今も人々に敬慕されています。

鷹山は、後継者を育て、自らは自由の身となって更に改革を推し進めようと、35歳で隠居を決意します。この時、鷹山は、十代藩主になった重定の子治広に対して、藩主としての心構えとして「人君の心得」を伝えます。「一.国家は、先祖から子孫に伝えられるもので、決して私すべきものではないこと。一.人民は国家に属するもので、決して私してはならないこと 一.国家人民のために立ちたる君であって、君のために人民があるのではないこと」、これが「伝国の辞」です。

隠居した鷹山は、後見人の立場から、益々改革を推し進めていきます。改革は50年余り続き、鷹山の死後2年目にしてようやく達成されます。その時の貯蓄が5千両だったそうです。その頃までに「ぼうくいの商い」が藩内に行き渡りました。無人の場所に置かれた売り物の代価は誰も盗まないという、人を信ずる商いです。

明治11年、西洋人女性として初めて東北を旅行した、英国人旅行家イザベラ・バードは、米沢盆地の風景を絶賛して「東洋のアルカディア(理想郷)」とまで表現しました。一木一草に至るまで民の豊かな生活のために、すみずみまで整然と管理され利用されている田園風景に感動したためだと言われています。ジョン・F・ケネディ第35代米国大統領も、内村艦三が英文で紹介した「代表的日本人」を通して鷹山を知り、「民のための藩」という考えに共鳴し尊敬していたそうです。

鷹山公は、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」という不朽の名言を残しました。不可能に近い目標に向かって、人を愛おしむがゆえに、どんな困難も克服しながら、不変不屈の精神で改革を成し遂げた、鷹山の闘いと勝利を見事に表した名言です。愛のために、不可能に近い目標達成のために闘い続ける私たちに対する、永遠の応援歌です。

(上杉神社・NHK・童門冬二「小説上杉鷹山」・)

キャロライン・ケネディ駐日米国大使

「なせば成る」と日本語で挨拶!

2013年11月27日、キャロライン・ケネディ駐日米国大使は、就任後初のスピーチで、父親である第35代米国大統領ジョン・F・ケネディが、生前、上杉鷹山公を尊敬していたことを紹介し、「父は18世紀の東北地方の大名、上杉鷹山の優れた統治と、公益のために我が身を捧げた姿を賞賛していた。鷹山は(当時他に類をみない)民主主義的な改革を推し進め、様々な階層の人々の社会参加を促し、改革を成し遂げた」と語りました。(日米協会・在日米国商工会議所)確かに、ケネディ大統領は、1961年1月20日の就任演説中で、「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えよう」と語りかけました。1960年代の困難な世界の中で米国大統領として就任するとき、ケネディ大統領は、鷹山公と藩士領民が上下の別なく一丸となって奇跡の藩政改革を成し遂げた勝利の軌跡を、その道標として掲げていたに違いありません。

昨年9月27日、キャロライン・ケネディ駐日米大使は、米沢市で開幕した「なせばなる秋まつり」に合わせ、プライベートな旅行で米沢を訪れました。鷹山の伝国の辞がプリントされた手拭いを首に掛けて笑顔で車を降り、米沢織の着物と羽織はかま姿の吉村美栄子知事、安部三十郎米沢市長らの出迎えを受けました。伝国の杜でのスピーチでは、「父は鷹山公を尊敬していた。皆さんが鷹山公から受け継いだ遺産をたたえ、新しい世代に伝えていることは喜ばしく心からお祝いしたい」と語りました。加えて元大統領の言葉を紹介し、「父は『一人でも世の中に変化をもたらすことができる。みんなやってみるべきだ』とよく言っていた。鷹山公ほどそのことを端的に言い表した人はいない」と語り、「なせば成る」と日本語で挨拶を締めくくりました。

(yamagata-np.jp/news/201409/27/)

雑誌 海洋真時代 Vol.2より抜粋
2015年6月3日発行

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